主治医にうまく伝えられなかった話——実は「いつも通りです」しか言えない自分がいた

診察室に入るたびに、「今日こそちゃんと話そう」と思う。でも椅子に座って先生の顔を見た瞬間、言葉がどこかに消えてしまう。結局「いつも通り過ごしていました」と答えて、あっという間に診察が終わる。この繰り返しが、どれほど続いたかわからない。

うつで休職することになってから、心療内科に通い始めた。医療者に気持ちを伝えることが、回復への道の一部だとはなんとなくわかっている。でも実際の診察室では、「うまく伝えられない」という経験のほうがずっと多かった。この記事は、そんな自分の体験をそのまま書いたものだ。正解を示すものではないし、「こうすれば解決する」という話でもない。ただ、同じように感じている人がいたら、「自分だけじゃないかもしれない」と思ってもらえたら、それで十分だと思って書いている。

なお、この記事は筆者個人の体験にもとづくものであり、医療的なアドバイスではない。気持ちのつらさが強いときや、眠れない・食べられない状態が続くときは、どうか一人で抱え込まず、主治医や専門機関、お住まいの地域の相談窓口に頼ってほしい。

主治医にうまく伝えられなかった話——「いつも通り」という言葉の裏側

診察はたいてい数分から十数分程度で終わる。その短い時間の中で、先生は「最近どうですか」と聞いてくれる。そのとき自分の口から出てくるのは、いつも決まって「いつも通り過ごしていました」という一言だ。

本当は「いつも通り」ではない。朝、布団から出ようとするだけで体が鉛のように重い日がある。夫が仕事に出かけた後、ひとりで部屋にいると、何もしていないのに涙が出てくることがある。好きだったはずのことをやろうとしても、「楽しい」という感覚がどこにもなくて、ただ時間だけが過ぎていく。そういう日が、実は何日もあった。

それなのに、なぜ「いつも通り」と言ってしまうのか。自分でもずっと不思議に思っていた。

一番大きかったのは「否定されることへの恐怖」だった。「そんなことで落ち込まなくてもいい」「皆そういうことはある」「気にしすぎじゃないですか」——そういう言葉が返ってくるのではないかという怖さが、常にある。実際に、これまでの人生で心無い言葉をもらった経験が何度かあった。医療者だけでなく、職場や身近な人からも。その記憶が体に染みついているのか、診察室でも同じ警戒が働いてしまう。

「なんでもないこと」と言われるのが怖い。自分が感じているこの重さを「それくらいのことは誰でもある」と処理されてしまったら、自分の苦しさそのものが消えてしまうような気がする。だから最初から「大したことは言わないでおこう」という防衛が働いて、「いつも通り」という言葉を選んでしまう。

そしてもう一つ、診察室を出た後にいつも思うことがある。それは「これはうつのせいなのか、それとも元来ネガティブな自分のせいなのか」という問いだ。うまく話せないのも、怖くて本当のことを言えないのも、体調が悪いからなのか、それとも自分がもともとそういう人間だからなのか。どちらだとしても、自分を責める方向に思考が向かっていく。その責める気持ちが、さらに言葉を飲み込ませる原因になっている気がしてならない。

診察で「いつも通り」と答えた日の帰り道、よく「また言えなかった」と思う。バスの窓から外を眺めながら、さっき診察室で言えなかった言葉たちが頭の中にぐるぐる浮かんでくる。そのとき初めて、「本当は今日こんなことが苦しかった」と、自分自身の言葉で気持ちを確認できる。あの不思議な感覚はなんなのだろうと、今でも思う。

うつで休職中の今、診察は生活の大切な柱のひとつだ。でも「うまく伝えられない」という状態が続いても、診察に行くことをやめたいとは思っていない。先生に何も伝えられなかった日でも、薬をもらえて、「次の予約を入れてください」と言ってもらえる。それだけで、「まだここにつながっている」という感覚が持てるから。伝えられなくても、行くことに意味があると、今はそう思っている。

主治医にうまく伝えられなかった話が教えてくれた、「正直に話せない理由」のこと

うまく話せない理由を整理しようとしたとき、いくつかのことが見えてきた。これは自分の場合の話であり、すべての人に当てはまるわけではないけれど、もしかしたら似たような経験をしている人の気持ちを少し言語化できるかもしれないと思って書く。

診察の時間的なプレッシャー

心療内科の診察は、多くの場合それほど長い時間をかけることができない。先生も忙しい、他にも患者さんがいる、ということが待合室にいるとひしひしと伝わってくる。「長く話して迷惑をかけてはいけない」という気持ちが、自然と湧いてくる。

話す前から「短くまとめなければ」という焦りが生まれると、感情的な言葉は後回しになる。「どうですか」と聞かれた瞬間に、「何をどう話せば一番効率的か」という無意識のフィルターが働いてしまう。結果として「いつも通り」という、何も言っていないに等しい言葉が出てきてしまう。

「弱音を言っていい場所」という感覚がまだ育っていない

診察室が「弱音を言っていい場所」だとわかっていても、そこに感情的に実感が伴うまでには時間がかかる。特に、これまで「我慢すること」「できるだけ平気に見せること」を生き方のように身につけてきた人には、診察室でも同じ態度が出てしまうことがある。「ここでは正直に話していい」という安心感は、頭でわかっていても、体が覚えるにはもっと時間が必要なのだと思う。

自分の場合も、診察のたびに「今日は正直に言おう」と思いながら、体がいつも通りの「大丈夫な自分」を演じてしまう。それはある種の自己防衛で、意識的にやめようとしてもなかなかうまくいかない。

症状そのものが「言葉にすること」を難しくする

うつの状態にあるとき、自分の気持ちを言葉にすること自体がとても難しくなる。「何がつらいですか」と聞かれても、「何もかもが重い」としか言えない。もう少し具体的に話そうとすると、どこから手をつけていいかわからなくなって、思考が止まってしまう。

これは「伝える努力が足りない」のではなく、症状として言語化の力が落ちていることが背景にある場合がある。自分が「なぜうまく話せないのか」と自分を責めるとき、その責め方自体も症状の一部なのかもしれない、と後から思うことがある。でもそのときは当然、そんなふうには考えられない。

過去に「伝えて傷ついた」経験が積み重なっている

診察室に限らず、これまでの人生の中で「本当のことを話したら傷ついた」という経験がある人は少なくないと思う。「それくらい皆やっている」「甘えているだけ」「気持ちの問題」——こういった言葉を、医療の場以外でも受け取ってきたとしたら、診察室でも同じことが起きるかもしれないという恐怖は、当然の防衛反応だと思う。

自分もそういう言葉を受け取ってきた記憶がある。夫は話をしっかり聞いてくれる人だけれど、それ以外の場所での「うまく伝えられなかった経験」や「伝えて傷ついた経験」が、診察室での態度にも影響しているのだと気づいたのは、ずいぶん後になってからのことだった。

主治医にうまく伝えられなかった話から気づいた、「メモ」という小さな工夫のこと

「うまく伝えられない」という状態が続く中で、あるとき試してみたことがある。診察の前に、気持ちをメモに書いて持っていく、という方法だ。

これは特別な方法でも、誰かに勧められたものでもない。診察室で言葉が出なくなるなら、あらかじめ書いておいてそれを渡せばいいのではないか、という、ただそれだけの思いつきだった。

メモを書くといっても、きれいな文章である必要はない。「今週は火曜日の午前中に涙が止まらなかった」「夜中に目が覚めて眠れない日が続いた」「朝、ごはんを食べようとしたけど食欲がなかった」——そういった、その週に自分が経験した具体的な出来事を、箇条書きで書いておくだけでいい。「なぜそうなったか」の分析は不要で、「こういうことがあった」という事実だけを書けばいい。

書いてみると、思わぬことが起きた。診察室で渡す前に、メモを書く作業自体が「今の自分はどういう状態か」を自分なりに確認する時間になっていた。書くことで、頭の中に霧のようにあった「なんかつらい」という感覚が、少しだけ輪郭を持ち始める感じがした。

それでも「こんなことを書いて先生に変に思われないか」という心配はあった。渡すのをためらった日もあった。でも思い切って渡してみたとき、先生はメモを読んでくれて、「火曜日のことをもう少し教えてもらえますか」と聞いてくれた。その一言が、「ああ、読んでもらえた」という安心感になった。

もちろん、メモが万能なわけではないし、渡せない日もある。うまく書けない日もある。そういう日は無理に書かなくていいと思っている。「伝えなければならない」という義務にしてしまうと、またそれが新しい重荷になってしまうから。

メモを渡すという方法は、あくまでひとつのアイデアであって、合う人と合わない人がいると思う。「診察で話してみようとした日があった」というだけで、それは十分なことだと思っている。伝えられなかった日は、伝えられなかっただけのことだ。次の診察にまた行けたなら、それでいい。

主治医にうまく伝えられなかった話とともに、今の自分が思うこと

休職してから、時間の流れ方が変わった。以前は「何かをしている時間」だけが自分にとって有効な時間だった。何もしていない時間は、罪悪感と焦りでいっぱいだった。今も完全にそれが消えたわけではないけれど、少しずつ「何もしない時間がある」ということに慣れようとしている。

診察室でうまく話せない自分について、「これはうつのせいか、元来のネガティブな性格のせいか」という問いは、今もときどき頭に浮かぶ。でも最近は、そのどちらかに決めようとすることをやめた。どちらかに決めたからといって、何かが解決するわけではないし、「うつのせい」と言えれば自分を責めずに済むというわけでもない。「元来の自分のせい」だとしても、それは責められることではない。

「なぜこうなったのか」を突き止めようとする力を、今はもう少し「今日をどう過ごすか」のほうに向けたい。うまくできない日は、できない日のままでいい。診察でまた「いつも通り」と言ってしまった日は、そういう日だった、ということで終わりにしていい。

夫が「ちゃんと言えなくてもいいんじゃない」と言ってくれたことがある。その言葉は思ったよりずっと深いところに届いた。「ちゃんとしなければいけない」という圧力の中で生きてきた自分にとって、「言えなくてもいい」という許可は、小さいようで大きなものだった。

もし今この記事を読んでいる人が、同じように「診察でうまく話せない」「本当のことを言うのが怖い」と感じているなら、それはあなたが弱いからでも、おかしいからでもない。伝えられない気持ちには、それだけの理由がある。そしてそれは、今すぐ解決しなければならないことでもない。

つらさが特に強くなったとき、消えてしまいたいような気持ちが出てきたとき、眠れない・食べられない日が続くときは、どうか一人で抱えないでほしい。主治医に伝えること、あるいはお住まいの地域にある相談窓口や専門機関に連絡することは、自分を守るために使っていい手段だ。うまく話せなくても、電話口で「つらい」と言うだけでもいい。それだけで、つながることができる。

診察に行き続けることそのものが、すでに「自分を守ろうとしている」ということだと思う。伝えられなかった日も、足を運んだことは本物だ。

主治医にうまく伝えられなかった話のまとめ——伝えられない日も、続けることに意味がある

この記事では、うつで休職している自分が、診察室で「いつも通り」としか言えない経験について書いてきた。最後に、この記事を通じて伝えたかったことを静かにまとめておく。

うまく伝えられないのは、意志の弱さでも、努力の不足でもない。診察の時間的なプレッシャー、過去に傷ついた経験、症状によって言語化の力が落ちていること——そういったさまざまな要因が重なって、言葉が出なくなることは十分にありえる。自分を責めなくていい。

「伝えられなかった」という事実は、「診察に行かなかった」とは違う。診察室に行って椅子に座って、「いつも通り」と言っただけの日であっても、そこに行ったことはきちんと意味がある。つながりを保つことが、今の自分にできることのひとつだと、自分はそう思っている。

気持ちをメモに書いて渡すという小さな工夫は、合う人には助けになるかもしれない。でも合わない日は無理にしなくていい。「伝えなければ」という義務感は、今の自分にはいらない荷物だ。できることを、できる範囲でやっていく。それだけでいい。

診察で正直に話せない日があっても、あなたは診察を続けていい。伝えられなかった気持ちは、消えたわけではなく、ただ今日は出てこなかっただけだ。

回復には波がある。一歩進んで二歩戻るような日もある。それでも、今日もここにいるということが、すでに大切なことだと思う。

この記事はあくまで筆者個人の体験と考えをまとめたものであり、医療的なアドバイスではない。気持ちのつらさが強いとき、または今の状態について不安があるときは、主治医や専門機関、お住まいの地域の相談窓口に相談してほしい。あなたが頼っていい場所は、確かにある。

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